カンボジア プノンペンで働いていた頃の思い出
私は紆余曲折して
30歳ぐらいで カンボジアで一年ほど 日系旅行社の現地企業にて
働かせて頂いた事がありました
とは言え 出向なんて上級国民じゃなくて 僅か月給1000US$の
現地採用社員でしたが
だが生活は 日本よりも楽だったと思います
会社が ホテル代月400ドルを 支給してくれましたし
何しろ ランチ中華一食食べても 1ドルの世界ですから
それに 日本からのツアー客が入ると 私はガイドとして
100回以上は アンコールワット遺跡がある シェムリアップには
行っていると思いますが
ツアーに入るとこれが旨いモノばかりタダで食べれるから余計に
お金を使わない訳なんですよ
更にカンボジアは チップ社会じゃないけども やはりそれなりの
ホテルに泊まるとなると チップを払うのはスマート
となると 私にもまぁ9割ぐらいのお客様は チップを下さいます
でまぁ そのチップの話になるんですが 色々なお客様が居る訳です
一番太っ腹だったのは 何と行っても 自◯党の国会議員様でした
3日間ガイドをして 何と300US$を頂いてしまい 驚きを隠せませんでした
逆に(゚Д゚)ハァ?と思われた方も いらっしゃいました
そちらはアンコール遺跡を 周遊する為の街 シェムリアップで
深夜に飲みすぎて ベッドからコケて 骨折してしまった
大型団体の年配の方でしたが これは大変でした
マネージャーは休暇取って フォローが一切無く
一同は翌日ツアーの 日程道理に遺跡を回れません
当時のシェムリアップなんて 日本人をロクに見れる病院が
まずありません 一同は半日病院の横のバス に釘付けになってもらう
しかありませんでした
色々なお客様が いらっしゃいましたが あそこまで 手こずった仕事は
後にも先にもありませんでしたが 1ドルの謝礼も頂けませんでした
まぁチップってのは 特別な気遣いをしてもらった 結果の感謝の気持ちだと
私は思っていますので 私の仕事具合がなって なかったんだと 納得しております
人生日々修行
結論 初めてキメる時には一人で吸ったら駄目って事
俺はキャピトルゲストハウスにチェックインして
吸ったジョイント大麻を、三服した後に、時間の観念がおかしくなって
いってる事を知った。
カンボジア・プノンペンではバイタクが事ある毎にクラクションを鳴らすんだが
その周期が長くなったり短くなったりして俺はパニックに陥った。
(俺は狂ってしまったのかもしれない・・・・・・・)
しかし着いたばかりの街で、ゲストハウスで知り合いなど居るわけも無い!!!
俺は裸足で1階のレストランへ降りて行き日本人を見つけることができ
事情を話した。
その男も決してプロと言う訳でも無かったが、まぁ事情を聞いてもらい
その後、街を案内してもらったんだが
所謂遊びの為に開放された
これは世界的にもこの流れが来てて未だに、大麻は麻薬だなんて
言ってるのは日本のNHKぐらいのものである(シンガポールはもっと厳しいかだも)
とにかくセッティング これに尽きる
場所・人・モノ 最初はすべて上級者にリードしてもらうべしである
そして我国に戦前に存在して居なかったアメリカGHQが石油産業を
進める為に無理やり押し付けてきて今では自分では開放してきている
アメリカ様は頼むから日本に圧力を加えてほしい
アメリカ全土が開放になったらその流れは止むを得なくなるかもしれない
だけども法律は法律 今の日本国内で 吸ったら駄目だぞ
単なる雑草なのに 天下のNHKが麻薬って 言っちゃう国なんだからなぁ(嘆き)
法律上でも大麻と麻薬って はっきりした違いがあるのに 麻薬って言っちゃう国だからなぁ
はじめての カンボジアの魔都プノンペンへ 97年7月
プノンペンのポチェントン空港に、着陸した双発機は静かに、プロペラを回しながら
止まった。
俺はまず安ホテルにチェックインするとまずマリファナを手に入れる事にした。
勿論、大麻なんて吸った事など無いが宿の外に居るバイタクから5分以内で
ジョイントをゲットする事が出来た。
これは大きなミスだった。初めての国、右も左も分からない。
知り合いも居ない、知識も無い、安宿、すべてにおいて最低のセッティングだった。
バカとしか言いようが無かったが俺は大きく一服してみたが、何とも無い。
それもそのハズ、大麻はタバコとは違う。ラグが有るんだから最初は様子見しながら
吸っていく必要があるが、俺は続けざまに大きき吸いまくった。
バカとしか言いようが無い。本当にバカだった。
俺の人生を変えたのは、一冊の本と一本の、草の根パソコン通信であった その1
私は、大学に入学したものの、5年通って
一度も出席せずに単位(逆に言うと0出席で7単位)を記録したせいで
バブルが弾けてた私には、就職先などあろう訳が無かった。
従って、俺は大学卒業後、教員になろうと思い
世間は厳しかった。 今こそ教員は激務で
倍率も低いそうだが、バブル崩壊直後では
教員採用倍率は10倍に達していたし
優秀な人間が、教員になろうとしてる中で、私が教員採用試験に受かる訳が無かった。
そんな中でとある塾が専任講師として、俺を拾ってくれたのだった。
あれは俺に、」とってとてもありがたい話だったし
仕事も楽しかったしやりがいもあったのだが・・・・・・
しかし、俺にはインドに行くという夢をどうしても、忘れる事が
出来なかった。
沢木耕太郎の「深夜特急」を、大学時代に読んでいて憧れていたからだった。
だから、いつも出勤時には、いつかこれがインドに旅立つ列車だったならなって
思って、中央線八王子駅から上り列車に乗ったものだった。